会社概要

ひたむきな「技」と「心」を愛して

私たちは、創業以来、一貫して文化庁認定の輪島塗技法に基づき、輪島漆器の制作と販売を継続しています。
千舟堂ブランドとして顧客の細かいニーズに応え、その個性を大切にした漆器の制作に定評をいただいております。

2008年洞爺湖サミットの際には、弊社制作の盃が歓迎晩餐会にて、漆器組合を通じて公式採用されました。
このことは日本国内はもとより、国際的にも漆の魅力を紹介し、強く発信できたと自負しております。

これからも、お客様の大切な逸品となるよう、ひとつひとつ心を込めて制作し、
今後も漆(japan)の心と文化をお届けしていきたいと考えております。

代表の想い

私は争いごとが嫌いです。

輪島塗が世界に広がれば、戦争がなくなると考えています。

私たちが生み出す輪島塗のように、世界にはその地域で育まれてきた工芸品や文化があります。それはきっと、その地域で暮らす人々の心を豊かにしてきたものなのです。それらに対する尊敬の思いは、誰もが共感できるでしょう。 

私たちは人を操ることはできませんが、気持ちに寄りそうことはできます。

火種になるものでなく、共感を生むことができる企業でありたいと考えております。

きっとその先に、争いのない世界が待っていることを信じて。 

まずは私たちの周りの人々から。

作っている職人さん方や、使ってくださる皆さまの表情が和らぐために、今日という一日を歩みます。

私たちの商品が、皆さまの心豊かな暮らしに繋がることを願っています。

株式会社岡垣漆器店

代表取締役 岡垣 祐吾

伝統と革新——千舟堂が歩んできた道

千舟堂の歩み——明治から受け継がれる伝統

明治期に創業した船木千舟堂。私(岡垣)とは親戚関係にあたるため、これまでの経緯を説明します。

私の祖父は鳥取県の出身です。第二次世界大戦で海軍へ派遣されますが、終戦後に帰国します。その後は東京などを転々としたものの、なかなか定職には就けなかったそうです。そんなとき、祖父の姉が嫁いでいたのが船木千舟堂。弟(私の祖父)に対し、「丁稚奉公から始めるかい?」と誘われ、輪島に移りました。

1950年に暖簾分けというかたちで千舟堂が2件に。船木千舟堂は主に西地区、弊社は東地区を中心に商売をしてまいりました。

2000年代初頭に船木千舟堂が店を閉めたため、現在では千舟堂の屋号は弊社のみとなっております。

輪島の風土と職人の手——私の原点

私の生まれは東京(母の実家)ですが、幼少期から高校生まで輪島で育ちました。

運動は苦手でしたが、絵を描いたり、周りにあるもので何かを作ったりと、手を動かすことは好きでした。友人にも恵まれたおかげで、地域に対する愛情はいまも変わりません。

岡垣漆器店は私の実家の家業です。

当時は職人さん方が集まる機会も多く、よく酒宴に入って(もちろんジュース)遊んでいました。皆がどんな仕事に携わっていたのか、よくわかりませんでしたが、手は厚くて優しく、また酔っても眼力は備わっていたのを覚えています。

高校生になっても職人さん方には優しく接してもらい、いつしかそれが私の中で当たり前になっていたのかもしれません。

大切な仲間と新たな出会い

輪島の高校生は、公務員や地元企業に就職する同級生を除き、卒業後に市外へ出る者がほとんどです。私も都内に進学し、東京で輪島の友人たちと会う日もありました。

お盆や夏祭りの時期には離れた同級生と集まることが多く、なんだかんだ言っても地元愛が強い同級生たちでした。

就職は横浜のホテルに決まり、約5年間勤務しました。レストランで働きたかったのですが、配属先はバー。でもがっかりという気持ちはなく、お酒を楽しく(ときに厳しく)理解することができました。

ホテルのバーには毎日いろんなお客様がいらっしゃいますが、常連のお客様も多くいらっしゃいます。いま思い返すと、同じお客様と日々会話を重ねて安心感を共有する実体験は、レストランではできなかったかもしれず、バーでの経験が私の根幹になっている気がします。

平成19年(2007年)能登半島地震が変えた人生の決断

平成19年3月25日午前9時41分、能登半島でマグニチュード6.9の地震が発生します。

当時は都内自宅で出社前の準備をしていました。馴染みの深い景色が次々と崩れていく映像をみて、離れていても喪失感に襲われたことをよく覚えています。

2か月ほど経ち、輪島に帰省したときにショックを受けたのは、小さい頃に遊んでくれた職人さん方の顔つきでした。いろいろなことがあったにせよ、うつむき加減の表情には諦めに近いものも感じられ、「このままでは良くない。この人たちと共に歩みたい。」と思い、横浜のホテルを退社し輪島に戻ることを決めたのです。

“立方体”から“ミラーボール”へ——新しい輪島塗のカタチ

輪島に戻ったものの、漆器業界の知識はほとんどありませんでした。父から「まずはモノを作ってみよ」と言われ、バー勤務時の経験からウィスキーのボトルホルダーを製作。しかし職人さんたちからは「この部分はこうした方がいい」「予算はどうなってる?」と、未熟な姿勢を指摘され、完成しても売り方すらわからず、恥ずかしい思いをしました。

そこで初めてターゲットを明確に意識し、男性顧客向けに《ダンディズム》をテーマに名刺入れやボールペン、地球儀、ハンガー、空気清浄機、デスク、ペット用の器などを開発。製作を重ねるうちに、「これらの商品は男性に限らず幅広く興味を持ってもらえている。輪島塗をもっと多面的に発信できるのでは」と考えるようになりました。

これまで私は、輪島塗業界を“立方体”のように感じていました。イメージされる商品はお椀や重箱、座卓、衝立など、ほんの数種類。面が限られている立方体では、光は探している人にしか届きません。

だからこそ、その面にあたる商品ジャンルを少しずつ増やし、輪島塗を“ミラーボール”のように多方向へ光を放つ存在にしていきたい。

≪ダンディズム≫群に加えて、人々に心豊かな生活を届けられる商品を作り、輪島塗をミラーボールのようにしていこう。その先にはお客様や職人の笑顔があり、それが伝統の継承に繋がることを信じています

能登半島地震を越えて——職人とともに再び立ち上がる決意

令和6年元日午後4時10分、マグニチュード7.6の地震が能登半島を襲いました。私は社屋4階に住む祖母のところへ家族と行き、新年の挨拶を交わしていました。自分の身体が浮いてしまうほどの揺れは、いま思い返しても恐怖が蘇ります。

幸い家族は無事でしたが、しばらくは命を守ることに徹した日々を過ごしました。1月下旬、給水所で職人さん方と再会する機会が増えると、彼らの手が震えていることに気づきました。寒さだけでなく、動けるのに仕事ができないことへの焦りや不安がにじみ出ていたのです。

そのとき私ははっきりと確信しました。
「この人たちと、もう一度立ち上がらなくてはならない。まずは自分が旗となり、職人さん方の道しるべになろう。」
この信念が、震災後の私自身の原動力となりました。

世界へ届ける輪島塗、そして復興の歩み

2月には、前年から準備していたニューヨークでの展示会に予定通り出展。現地では、漆に対する高い評価をいただいた一方、発信の仕方や受注体制に課題も見つかりました。

「本当の成果とは、職人さん方に仕事が届いてこそ」との思いから、10月にも再びニューヨークに渡り、ギャラリーでの展示会を開催。オープニングレセプションには80名を想定していたところ、300名以上の来場者があり、大きな反響を得ました。初の海外受注も実現し、先日無事に第一弾の出荷を終えました。

国内でも多くの方々に応援いただき、能登の復興への大きなエールに胸が熱くなります。しかし、同年9月には豪雨被害が発生し、私たちの心を再び試されました。

刻一刻と状況が変わるなかですが、私たちは今日も前を向いて一歩ずつ歩んでいきます。

千舟堂の歩み——明治から受け継がれる伝統
輪島の風土と職人の手——私の原点
大切な仲間と新たな出会い
平成19年(2007年)能登半島地震が変えた人生の決断
“立方体”から“ミラーボール”へ——新しい輪島塗のカタチ
能登半島地震を越えて——職人とともに再び立ち上がる決意
世界へ届ける輪島塗、そして復興の歩み

会社概要

株式会社岡垣漆器店

〒928-0001
石川県輪島市河井町20-1-83
TEL:0768-22-0616


【沿革】

1950年
岡垣漆器店創業、千舟堂の屋号を冠す

1972年
株式会社化

2008年
洞爺湖サミット晩餐会にて、乾杯盃に採用

2009年
漆のカラー17色を実現

2011年
他社との協働スタート